2011年6月28日火曜日

1193年6月28日: 曾我兄弟の仇討ち

曾我兄弟の仇討ちとは、1193年6月28日(建久4年5月28日)源頼朝が行
った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が父親の
仇である工藤祐経を討った事件のことである。赤穂浪士の討ち入りと伊
賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つであるとされている。

仇討ちを果たした後、兄弟は騒ぎを聞きつけて集まってきた御家人に取囲
まれ、十郎祐成は新田四郎忠常に討たれ、五郎時致は女装した五郎丸に
よって捕らえられ翌日処刑されたといわれている。

なおこの事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することが
できなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して巻狩に参加せず鎌倉
に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」
と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ範頼は伊豆修善
寺に幽閉され、のちに自害したと伝えられている。

曽我兄弟の仇討ちは、巻狩に集まった多くの東国武士に鮮烈な印象を与えま
した。その東国武士の語る曽我兄弟の話が語り継がれ、それを『曽我物語』
としてまとめたのは、箱根権現や伊豆山権現の僧であろうといわれている。

『曽我物語』は、兄弟の不運な生涯と、その悲劇的な最期が民衆の間に共感
を呼び、文学や芸能の分野でも盛んに取上げられ、次第に脚色されてきました。

芸能分野では室町時代には能や浄瑠璃などで取上げられ数多くの作品が生まれ
ました。江戸時代には歌舞伎の世界にも取上げられ、民衆の人気に支えられて
次々と新しい趣向の作品が生み出されました。

歌舞伎で「曽我物語」が盛んに上演されるようになると浮世絵にも描かれるよ
うになり、数多くの「曽我物」と言われる物語絵・武者絵・役者絵等が出版さ
れました。

曽我兄弟の墓については、多くの説がある。

その一つは、曾我十郎を討った新田四郎忠常の陣屋が置かれたという静岡県富士
宮市の曽我八幡宮東側の丘の上にも、十郎が討たれたとされる地点に曾我兄弟の
墓が建てられている。この写真を下に示す。



有力とされるものは、曽我の里と呼ばれる一帯にある城前寺(神奈川県小田原市
曽我谷津)が挙げられる。城前寺の由来は、曾我兄弟の死後に叔父の宇佐美禅師
がこの地に兄弟の遺骨を運んで弔ったのが寺の興りとしている。

参考資料
曾我兄弟の仇討ち
「富士の巻狩と曽我兄弟の仇討ち」展

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