2010年3月26日金曜日

1945年 - 最後まで米軍に抗戦していた栗林忠道配下の部隊が全滅(硫黄島の戦い終結)

硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい/いおうじまのたたかい。
1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)
末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間
に生じた戦闘である。

日本軍に増援や救援の計画は当初よりなく、2万933名の守備兵力
のうち2万129名までが戦死した。これは損耗率にして96%にのぼる。
一方、アメリカ軍は戦死6821名・戦傷2万1865名の計2万8686名の
損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊
の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が、日本軍を上回った
稀有な戦いであった。

昭和20年(1945年)2月19日からの硫黄島の戦いの指揮を
栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年7月7日ー 1945年3月26日)
が執る。


圧倒的な劣勢の中、米軍の予想を遥かに上回り、粘り強く戦闘を
続けるが3月16日、ついに大本営に訣別電報を打電。翌17日、
大本営よりその功績を認められ、特旨を以て陸軍大将任官。
これは平時とは異なる戦時昇進ではあるが、日本陸海軍中最年少
の大将である。その為、栗林の大将任官は訣別電報を受けての
進級ではあるものの、死後進級である特進では無い。







3月26日、数百名の将兵と共に、自ら指揮を取り米軍陣地に対し
最後の攻撃を敢行し、戦死したと推定される。享年55(満53歳没)。
この突撃は万歳突撃の形を取らず、隠密に敵陣に近づき敵側の油断
を突いた夜襲・ゲリラ戦に近い戦法を取ったため、予期していな
かったアメリカ軍に対して最後の打撃を与えることに成功した。
栗林は、この最後の組織的戦闘で戦死したと推定されている。

戦闘終結後のアメリカ軍による調査でも栗林の遺体を特定・発見
出来なかった。

なお、陸軍大将自らが総攻撃に際し、階級章を外して参加したため、
現在でも栗林の遺体は確認・発見されていない。
大将が自ら敵陣へ突撃し、戦死したのは日本軍の戦史上初めて
のことである。

醜草の島にはびこるその時の 国の行く手一途に思う





1985年2月19日、硫黄島において、日本とアメリカ双方の退役軍人ら400名による合同慰霊祭が行われた。
「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記
すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して
之れを繰り返す事のないように祈る次第である。」

付記
平成19年6月18日以降の硫黄島の呼称を「いおうじま」から
「いおうとう」へ変更することとした。

上記文章、写真は Wikipedia による

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