2010年3月23日火曜日

1945年 - 太平洋戦争において、米軍の沖縄上陸作戦開始に伴い、ひめゆり学徒隊動員。

「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の
校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」
とを組み合わせた言葉で、もとは「姫百合」であったが、
戦後ひらがなで記載されるようになった。
なお、植物のヒメユリとは関係がない。

沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも
参拝する人が絶えない。

1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校
の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、
南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。

しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地
附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃
にさらされるようになったため、5月25日には陸軍病院その
ものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして
南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだ。
この際患者を収容する壕が確保できなかったために負傷兵は
原隊への復帰が命じられ、病院としての機能は失われていた
という。

最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊である。
第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、
壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、
87名が死亡した。さらに壕の生存者9名のうち教師1名と
生徒3名は壕脱出後に死亡した。従って、第三外科壕にいた
ひめゆり学徒隊のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに
生徒5名のみである。

なお、ひめゆり学徒隊以外にも他の学校の生徒を集めて
作られた学徒隊は別にあり、それぞれ所属校にちなんだ
名称がついていた
(県立首里高等女学校のずゐせん学徒隊などが有名)。
これらの学徒隊もほぼ同様の運命をたどり、
それぞれの名にちなんだ慰霊碑が建てられている。






上記写真、文章は Wikipedia より引用

戦時中本土に暮らした人々は、もっと沖縄のことを
考えるべきである。唯一陸上戦が行われたことを
決して忘れるべきでない。

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