2009年11月10日火曜日

ベルリンの壁崩壊から20年

”1989年11月10日未明になるとどこからともなくハンマーや建設
機械が持ち出され、「ベルリン市民」はそれらで壁の破壊作業を始
めた。壁は東側によって建設された東側の所有物であるが、東側
から壁を壊していい旨の許可は一切出されていない。しかし数日
後からは東側によって正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自
由の便宜が計られるようになった。

こうして1961年8月13日に建設が始まった「ベルリンの壁」は
28年後の1989年11月10日未明、突如として破壊される事となっ
た。冷戦、越えられない物、決して崩れない物、地域と国民を
分断する物を象徴するベルリンの壁はあっという間に崩れ去っ
た。”(Wikipedia より)

この東西市民を分断してきたベルリンの壁で思い出される事
がある。

35,6年前東ドイツのドレスデンで国際学会が開かれ、それ
に参加した時、東ドイツへの入出国の大変さを痛感させられた。

入国は学会事務局から発行された入国査証が必要であった。
日本から学会に参加する人々が空路団体で入国したのである
が、某有名大学の日本では著名な教授が学会事務局から発行
された入国査証を持っていなかったため、空港で4~5時間
待たされた。さぞ某旅行会社の添乗員の人は大変だったこと
と推察される。その教授から皆に対して何の釈明もなく、
苦々しい思いをした事が思い出される。

出国は団体ではなく、個々に行った。私は、連れの一人と
メーカーの人2人と計4人で汽車で西ベルリンにいった。
メーカーの人1人が西ベルリンの駐在員の人と一緒に自動車
で入国しており、その自動車をどうしたのかと、機関銃が
天井に取り付けられた出国ゲート
で執拗に尋ねられ、なか
なか西ベルリンに出国させてもらえなかった。

西ベルリンでは、ベルリンの壁、ブランデンブルク門等の
観光をした。

ベルリンの壁では、東ベルリン脱出を試み銃殺された場所
に慰霊の言葉が書かれていた。

冷戦当時多くの人が東ベルリンから西ベルリンへの脱出を
試み、その大半が銃殺されたのである。痛ましい事である。

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